
坂 村 真 民 の 世 界
よ う こ そ タ ン ポ ポ 堂 ヘ(最終更新12.10.28)

(瀬戸内海に沈む夕陽・2000年6月撮撮影)
あなたは 人目の来訪者です。
坂村真民さんの略歴 明治42年1月6日 熊本県に生まれる。8歳の時に、父親 の急逝によりどん底の生活に落ちる。5人兄弟の長男とし て母親を助け、幾多の困難と立ち向かう。昭和6年 神宮皇 学館(現皇學館大學)を卒業。25歳の時、朝鮮にて教職につ き、36歳全州師範学校勤務中に終戦を迎える。昭和21年 から愛媛県で高校の国語教師を勤め、65歳で退職、以後詩 作に専念する。始めは短歌を志し、昭和12年『与謝野寛 評伝』を著している。四国に移住後,一遍上人の信仰に随 順して仏教精神を基調とした詩の創作に転じる。昭和37年、 月刊詩誌「詩国」を創刊、以後毎月、一回も休むことなく発 刊し1200部を無償で配布している。また詩の愛好者によっ て建てられる真民詩碑は日本全国46都道府県に分布し、 その数は現在,海外の20基と合わせると560基を超える。 主な著書は、4.「坂村真民全著作一覧」に載せてます。 (南股小学校の除幕式にて(12.9.16撮影) |
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ブ ナ の 森 ブナ の切株に 腰かけて 南股小学枚の生徒 五十二名と語る そこには 石川啄木も 宮沢賢治も 来ていた 夕暮れてゆく 森の中に 光が射し 純心な生徒たちの 顔が光る 世紀二千年 九月十五日 わたしはこの日を 忘れない |
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鶏 舞 い 最後の鶏舞い(とりまい)が 実に良かった とり年生まれのわたしに 心を込めて踊り わたしを迎え わたしを送る 岩手県南股小学校の 生徒たちよ 揃いの衣装も 古典的で美しく 踊りも東北の国にふさわしい 優雅なものだった 囃子(はやし)は 村の方がなさったが 神楽(かぐら)太鼓と 鉦(かね)すりとの呼吸が ぴつたりと合って 踊りが天にも地にも 広がっていった 近くの原生林では 神の使いのカラスたちが しきりに飛び しきリに鳴き その喜びを 神神に伝えていた 思えば村を挙げての歓迎が 鶏舞いとなったのであろう とり年生まれのわたしには 最大最高の嬉しい 鶏舞いであった |
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虹 花巻空港から 大阪空港へ 大阪空港から 松山空港へと 鳥のように舞い 本州を離れ 四国へと飛ぶ時 虹が立ち こんどの旅の 良かったことを 祝して下さった ああ 衣川村の方々 南股小学枚の先生方 保護者の方々 子供さん達の 美しいお心の虹よ |
機械化 何もかも 機械がしてくれる 世の中になり 一番大事な心の働きが 鈍ってしまった 善悪の判断ができない 人間が増えてきた 特に今の日本が そうである 野の鳥に聴け 野の花に聴け 原生林のブナに聴け |
こおろぎ賛 鳴け 鳴け こおろぎ 母なる星の 在るかぎり |
円いもの 円いものが 好きだから いつの間にか 円いものが 集まってくる インカの石も まるい 子産む石も まるい 先日円い水晶に 不動明王の種子(しゅじ) カーンを 梵字で彫ったのを頂いたが それで目をこすリ 手をこすり 明王のお力を碩いている ああ 円い日光を 国の旗にしている 日本に産まれ 地球の平安を祈る詩を 一つでも多く作ってゆこう |
柔道井上康生選手 高々と頭上に 母の遺影を掲げ 金メダル獲得の喜びを 地球に宣言した 柔道井上康生選手 このテレビは良かった 不快なことばかり続く 今の日本に この朗報は 二十一世紀を迎える 何よりの力となり 新しい扉を 開いてゆくであろう 若者よ 彼に続き 明るい祖国を築いてくれ |
シドニーオリンピックと 念ずれば花ひらく シドニーオリンピックと 念ずれば花ひらくとが 結びつくなど 思いもしなかっただけに 開会早々のテレビで 英訳文字入りの 念ずれば花ひらく 応援大幕を観た時 勝負ごとには 無縁なわたしを 逆転させた いったいどなたが発案し 世界中の人が見守る この会場に 持ち込まれたのであろうか 感謝でいっぱいになり 展開されてゆく 柔道の試合に見入った |
たんぽぽと 高橋尚子選手 たんぼぼの絹毛のようにふわふわと 四十二キロの旅に出る (高橋選手 作) わたしは始めから終わりまで テレビを通し その力走に見入った こんなことはまったくない わたしである 縁を結んでくれたのは たんぼぼだから たんぼぼにお礼を申そう 足の運びと共に見入る オーストラリアの四十二キロ 金メダルと金色のタンポポ 良い歌を作ってください |
好 き 好きになれ 好きになれ 何でもよい 好きなものを 見つけることだ わたくしは 走ることが好きです と言う 高橋尚子さんのように ※ 優勝した日は、翌日午前三時半に寝、 六時には起床し、外に出、走った、そうです。 |
マイクロアルジェ (生命誕生) この大宇宙には いろいろの惑星がある でも生命の存在する惑星は 今のところ この地球だけである その地球に 初めて生命を持つものが 誕生した それはマイクロアルジェという 海藻であり 今もなお生きているので その研究を続けている所が 沖縄の宮古島にあり そこに「大宇宙大和楽」の碑が 建った 地球に命が生まれた何億年前のものと 同じものを造リだそうという 発願を知り わたしは感動した ああ今や人間たちが この聖なる地球を 破壊しょうとしている時 海に囲まれた日本よ マイクロアルジェという 藻(も) にこもる 宇宙生命の誕生を知ろう |
後 記 1. 岩手県行き 十一月号は、岩手県行きと、シドニー・オリンピックの詩が中心となりわたしにとっては、忘れ得ないものとなった。 巻頭詩に出てくる南股小学枚は、行かない前から、何かしらわたしをひきつけ、わたしを呼ぷものがあり、足の重い ことなど弱音を吐かせぬ、強い吸引力を持っていた。 と言うのは、小学枚三年の時、父が急逝して、わたしたちは父が生まれた板ばかりの村に移り住んだが、複式学級 の小さな学校だった。そんな体験を持っているので、速くても、足が重くても、訪ね行って、先生や生徒さんたちに会 い、また東北の風物に接し、特に石川啄木や、宮沢賢治を生んだ岩手の空気を吸いたかったのである。 「すべては光る」の碑は、実に良い処に建立されていた。 詩碑の除幕入魂式は翌日になっているので、その日は近くの森で、わたしと生徒たちとの「ふれあい交流会」があり、 それがとてもよかった。 わたしの愛するブナ、わたしの好きな朴、そのような木々に囲まれ、生徒たちは、喜びを語り、希望を述べ、学級毎 に合唱したり、詩吟をしたりして、遠来のわたしを歓迎してくれた。 夕日が樹間から射し、そこには岩手県が生んだ石川啄木も、宮沢賢治も来ている思いがした。賢治の「雨ニモマケ ズ」の詩を、生徒たちは朗唱したが、わたしは啄木の短歌を朗詠して、それに応えた。 忘れ得ない実に良いひとときであった。 ブナの木よ、お前たちも、この日を忘れず語り草としてくれ。因みに私は始めから給わりまで、ブナの切株に腰かけ て居た。 2 シドニー・オリンピック わたくしはオリンピックを、このたびのように始めから終わりまで、心をこめて観たのは初めてである。詩にも青いて いるように、勝負ごとは、小さい時から好まなかった。 母は長刀(なぎなた)の免許皆伝、くさり鎌の免許皆伝を持って、嫁に来たのであったが、長男のわたしは、母の希 望に應えず、詩歌、遁世(とんせい)の道を好み、剛の世界より、 柔の世界を歩む人間となってしまい、今日にいた るまで、本当にすまなかったと、仏前にお詫びをするのである。 そういうわたしが、世界一を争う勝負のオリンピックを、テレビに吸い込まれるように観続けた。 それは「念ずれば花ひらく」が、テレビの画面に出てきたからである。 . これはまったく思いもかけなかったことであった。 テレビを観た方から、その喜びの便りが届くようになった。次のは、長野県穂高町に居る人からのもの、 「先日シドニー五輪の中継をみていましたら、大きな横幕に「念ずれば花ひらく」と書かれており、心から嬉しくなりまし た.応援用の横幕で、上にその英訳も出ていました.恐らく「念すれば花ひらく」の真言は、国を趨えるでしょう。」 もう一つ挙げておこう。 「シドニー・オリンピックの金メダリスト、やわらちゃん。 横断幕には「念ずれば花ひらく」で、八年の努力の末、つい に世界一を勝ちとりました。「念ずれば花ひらく」 って、いいですね。英訳も記してありました。」 と. また詩篇にも書いたように、四十二キロ力走の女子マラソンは始めから終わりまで、テレビを観続けた。 この人は「たんぽぽの綿毛のように・・・」など短歌を作るので、ただ走る人でなく、情緒ゆたかで、男の人たちにも、 沢山のファンを持っている。 長生きしたおかげで、シドニー・オリンピックは、尊い記念のものとなった。 3 命の大切さ 命を大切にしない人が増えてきた。そのためにも、マイクロアルジェの詩を作った。宇宙の新神秘をもっと知らねば ならぬ。 4 前月号から 一位タチユラの花。二位九十代を楽しく生きよう。三位新しい宇宙観。四位想念。五位風になれ、でした。 生きる証を一言でもいいです。知らせて下さい。
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